|
マリアナ諸島の鹿
サイパン島に、野生の鹿がいる。 意外に思う人が多いかもしれないが、実際にいるのである。動物性たんぱく源として、フィリピンからグアムに導入されたスペイン統治時代の1770年代初期にルーツを持ち、第1次大戦、日本軍占領時には相当数の野生の鹿がいた。しかしその後のサイパンの歴史が劇的に動くのと同じに、野生の鹿も波乱の運命を辿ることになる。
太平洋学会専務理事 中島洋
|
|
 |
 |
ヘッドライトの光の中に鹿
サイパン島はグアム島に次いでマリアナ諸島で2番目に大きいけれども、その面
積は123平方キロで、グアム(約549平方キロ)の約4.5分の1しかない。日本の淡路島(グアムより少し大きい)と比べると約4.8分1となる。
そのサイパン島には4万を超える人が住み、さらに1日平均5000人ほどの観光客が滞在している。また、島内5ヵ所に交通
信号が見られるように、多くの自動車が走っている。そんな島に野生の鹿がいると思う人は少ないだろうけれども、実はいるのである。
さる2月のある夜、上ドンニに住むG・カブレラさんは、外出先から自動車を運転して帰宅途中、あと数百メートルで自宅というところで、突然、ヘッドライトの光の中に鹿の姿を認めて、急ブレーキをかけた。鹿にぶつけて車体を傷つけたくなかったからである。
道路上に立ちすくんでいた鹿は、ゆっくりと薮の中に歩み去り、ヘッドライトが照らしていた空間から消えた。
|
|
 |
18世紀にマニラからきた鹿
マリアナ諸島ではサイパン島以外にも、グアム島とロタ島に野生の鹿がいる。これらの鹿の先祖をマリアナ諸島に持ち込んだのは、スペイン統治時代の1770年代初期のグアム島の知事を務めたマリアノ・トビアスで、原住民の動物性たんぱく源として、フィリピンからグアム島に鹿を導入した。
このトビアス知事の任期は、残念なことに、1771年9月から1774年6月までのわずか3年足らずに過ぎなかったが、彼は前世紀の1670年から25年間にわたって断続したスペイン・チャモロ戦争と、それに引き続くスペインの圧政で疲弊し、破綻しつつあったグアムの社会を建て直すため、積極的な善政を行なった。
各種の商業価値のある植物や動物を導入しただけでなく、大工、鍛冶、荷者製造、製塩、木綿製造などの職業をグアムに定着させた人として知られる。このうち、鍛冶は現在でもグアムに存続し、グアム産のナイフその他は高級土産品となっている。
当時、マリアナ諸島の原住民たちは、山の中に逃げ潜んで生き残った一部のロタの島民を除いて、すべてグアム島に集められ、サイパン島もテニアン島も無人島になっていたので、サイパンとロタの鹿は、19世紀になって、あるいは20世紀初頭にグアムから運ばれて繁殖したものである。
|
|
 |
サイパン土産の鹿の角
1914(大正3)年、第1次世界大戦で、当時はドイツ領であったサイパン島やロタ島を日本軍が占領した時は、両島にはかなりの数の野生の鹿がいて、第2次大戦前では、鹿の角は、マリアナからの高級土産品の1つであった。戦前のサイパンの絵はがきには、土産物店に飾られた何本もの鹿の角が写
っているものがある。
しかし、サイパン島ではサトウキビ畠の開発が進み、さらにコーヒー園などもあって、鹿の生息地がせばめられ、サイパンの土産物店で売っていた鹿の角も、実際にはロタ島のものが多かったようである。
昭和7年に、南洋興発(株)の技師としてロタ島事務所に着任した駒沢幸男氏は、『太平洋学会誌』の第49号(1991年1月刊)で、ロタでの鹿狩りについて、次のように記入している。〈総勢120人、全員会社関係の邦人で、みな張り切って獲物を期待していた。あらかじめの調査で追い込み線が定められており、撃ち手はその線で銃を構え待機している。
われわれは一線に散開して追い出しにかかった。10メートルから15メートルおきに1人ずつを配し、棒を持ち叩きながら大声を上げる。だんだん包囲綱が縮められてきた。だが鹿は利口で追い込み線に近寄ろうともしない。20頭位
ずつまとまって大木や岩場の蔭に隠れていて、一斉に角を向けてドッドッと飛び出してくる。
おそるべき勢いである。立ち向かうどころか怖くて避けて逃げるのが精一杯。難なく包囲綱は突破されてしまった。何十頭もの鹿は確かに見たが、結局1頭の獲物もなく、くたびれもうけに終わった。ともかくあの子牛ほどもある鹿が、集団で、角を突きつけて押し寄せる様は凄いものだ。〉
|
|
 |
鹿の繁殖にCIAが貢献?
第2次大戦終戦のころは、サイパン島の鹿は絶滅に瀕していた。日本統治時代は農業の開発が続いて鹿の生息地がせばまっていた上に、米軍上陸前後の猛烈な艦砲射撃と空からの爆撃、さらにはジャングルに避退した食糧難の日本軍による射殺などの原因が重なっていたからである。
しかし、そのような困難な状況の中で生き残った少数の鹿がいた。そして、鹿の繁殖力は極めて強く、ある恵まれた環境の下で、あっという間に増えた。恵まれた条件というのは、終戦3年後の1948年に、米国のCIA(中央)諜報局が、サイパン島の北半分を厳重な立入禁止地区にしたことである。
CIAは、当時、東南アジア各国での共産勢力の伸展を阻止するため、サイパン島の北半分に11ヵ所のスパイ訓練施設を設け、1952年からヴェトナム、ラオス、カンボジアなどから選抜してきた青年たちを分宿させ、それぞれの国の政府が共産主義勢力によって転覆させられたいための、各種の秘密訓練を行なった。
このCIAによる秘密訓練は1962年まで続けられ、各国からの延べ千人以上の青年たちが訓練を受けたが、その間、サイパン島の北半分が関係者以外立入禁止の地域であったことが、サイパンで野生の鹿が増える原因となった。悪名高いCIAの活動にも、こんな面
白い副作用があったわけである。
この東南アジアの青年たちを対象としたCIAの秘密訓練基地については、稿を改めて書く予定だが、この基地の本部と付属の多くの建物が、1962年にCIAが引き払ったあと、信託統治領の高等弁務官府となり、その後、その高等弁務官府がハワイへ移転したあと、北マリアナ諸島自治領政府の本庁舎その他として利用され続けている。
|
|
 |
絶えない密猟と飼育
マリアナの鹿の肉は大変に美味しいし、サイパンには銃を持っている人も少なくないので、その後、この増えた鹿を狩猟する人が多かったため、野生鹿の頭数に著しい減少が生じ、北マリアナ政府はサイパンでの狩猟を禁止した。
現在、北マリアナで鹿猟が認められているのは、野生の鹿が多いロタ島だけで、10月第2日曜の聖フランシスコ・デ・ボルハのフィエスタ(祝宴)の前後の一時期、9月1日から11月30日まで、オスの鹿だけを対象に撃ってもいいことになっている。
なお、このフィエスタでは、観光客にもご馳走が振る舞われるので、この日を日当てにロタ島を訪れると、鹿肉のおすそ分けを受けるかも知れない。
ロタ島では最も多く鹿がいるといわれるタイピンコート地区に隣接しているパウパウ・ホテルでは、かつては解禁時期獲られた鹿の肉を冷凍して、しばらくは宿泊客に提供していたが、最近では、オスだけを対象とした解禁期間中の狩猟でも、それを商業目的にしてはならないので、売ることも買うこともできないため、残念ながら、このホテルでもメニューから鹿肉は消えている。
さて、サイパンでは鹿の狩猟が全面的に禁止されているにも拘らず、密猟が絶えず、本当に絶滅するのではないかと心配されていたが、前述のG・カブレラさんの甥のジョン・カブレラさんが、自宅の裏庭で9頭も飼育している。ジョン・カブレラさんによれば、メスの鹿は10ヵ月に1回、子を生むそうで、9頭のうち6頭がメスなので、来年は15頭になるとのことである。
彼は鹿のほかに、ヤギ、闘鶏用のニワトリ、アヒル、ハト、ヤシガニなどを飼っており、「観光客がサイパンにきても、サイパンの動物を見ないで帰って行く。これは可哀相なことだから、やがては裏庭をミニ動物園にして、観光客に見せてあげたい」といっている。
ほかにもサイパンでもロタでも少数の鹿を飼っている人がいるが、いま、サイパンで生きた鹿を1頭買うと、少なくとも2000ドルもするそうである。
。
[参考文献]
* Francisco Olive y Garcia, "The Mariana Islands, " Translated and Annotated by Majorie G. Driver, Micronesian Area Research Center, UOG 1984.
* Paul Carano and Pedro C. Sanchez, "A Complete History of GUAM, eight printing, Charles E. Tuttle Company, 1980
* Alfred Vernon Wootten ?, 'The CIA Spy School on Saipan,' "Glimpses of Micronesia, 24-4, " Sanchez Publishing House, 1984.
サイパン・ロタ・テニアン月刊情報誌「ハファダイ」1994年8月号に掲載されたものを著者の許可を得て、転載させて頂きました。(やしの実大学事務局)
|
|
 |